学生であれ社会人であれ、何かを催したり発表したりする機会は少なくない。
そんなときは、自分の発表する内容やプレゼンの仕方ばかりに目が向いてしまいがちだ。
なぜならそうした発表などは大勢にとっては非日常の行為であり、精神的に余裕を以て臨むことが難しく、自分以外が見えにくくなってしまうからだ。
しかし、忘れてはいけない視点がある。
それは、聞いている側の視点だ。
当然のことだと誰もが頷くだろう。
しかし、学生をしていると、これが案外考慮されていなさすぎると感じる局面が多い。
誰かが催しや発表をする間、他の人たちはそれに意識を向ける。
意識を向けるつもりがなくても、大抵はその場に留まることになる。(半強制的に)
そうして意識を向けさせること、その場に留まらせることによって、
・時間(その場にいる時間)
・機会(その間にできる他のことをする機会)
・労力(意識を向けるための労力)
を奪っているという事実がある。
つまりは命を奪っているとも言える。
そう考えると、大勢にとってあまりに退屈な授業を展開する学校教員や、"ミーティング"で本質的でない話し合いに終始して時間を浪費する人たちの罪は深い。(例えば、私の大学の学園祭実行委員主催の模擬店責任者向け説明会は本当にオワッている。5-6回も強制的に招集される上、1-2時間を奪うくせに、ただ資料を読み上げるだけだ。大学生なのだから、資料をオンラインで配布して「読んできてください。質問があれば実行委員室もしくはメールにて対応します」でいいだろう)
だからこそ対価を意識する必要がある。
自分の提供するものに時間や意識を割いてくれる人に、そうして良かったと思ってもらえるよう、正当な対価を提供できるよう、努めなければならない。
聞いてくれる人がいるから成り立つのだ。
聞いてくれる人への配慮を怠ってはいけない。
そのためには、準備が不可欠。
来てくれた人にどんなメッセージを伝えたいか、何を残したいか、どういう状態で帰ってもらいたいかを明確にし、工夫して構成し、メンバーで共有しあう。
準備を怠っては、本人にも残るものが少ない。
一つ、失敗例を挙げよう。
大学3年生の始め頃、大学の同期が「海外体験報告会」なるイベントを開催した。
春休みに何らかのカタチで海外に行ってきた学生が、そこで得たものなどを他の人にプレゼンというカタチで観客に共有するというものだった。
その2ヶ月ほど前にコロンビアへの短期研修に参加していた私はプレゼンターとして話してほしいと頼まれ、体験の個人的振り返りとプレゼンの練習の良い機会と捉えて承諾した。
私のプレゼンを見た人の今後の選択のストックに「短期研修」や「コロンビア」や「中南米」というものが追加されること、実際に行動に移しやすくするという目標を立て、短期研修というカタチでの海外渡航の意義や詳細、多くにとって馴染みのないコロンビアという国の注意を惹く特徴などの情報を盛り込んだ。結果、イベント後に興味を持って質問してくれた子が何人か現れた。
しかし、このイベント全体は概ね失敗であった。
私を除く、発起人含む4人のプレゼンターたちは皆、フワフワな状態で臨んでいた。
ただ見てきたこと、やったことを羅列するだけ。
全てとは言わないが「俺、私、こんなところに行ってこんなことしてきたぜ(ドヤ」みたいな感じでオナニー的要素が強くて、有用な情報は少ないと感じた。
それでは人の心に大して何も残せないし、感情を動かし行動を動かすことにはなかなか繋がらない。
なぜそうなってしまったかというと、活動の目的が明確化されておらず、共有されていなかったからだ。
リーダーである発起人が想像の中で色々勝手に判断して思い込みで進めて視野狭窄に陥り、結果メンバーのコミュニケーションが疎かになっていた。
リーダーはそうあってはならない。
リーダーの力量が充分でないのなら、素直に他のメンバーにアイディアや助けを求めるべきだった。
特にこのように周りを巻き込むカタチで何かをやる場合、密にコミュニケーションを取り合わねばならない。
もちろん、上に挙げたことをいくら心掛けたところで、受け取る側は多様なので、皆に高い満足感をもたらすことは非常に難しい。
同じ内容であっても、80%の満足感で帰る人もいれば、20%の人だっている。
それはある程度は仕方ない。
しかし、全体のパーセンテージを少しでも上げるよう努めることはできるはずだ。
たとえプレゼンの力量がショボかろうが、上に挙げた姿勢でいれば、より良くしていける。
最後にまとめ。
発表やイベントは、オナニーであってはならない。
2017.4