NEOISM

NEOが己の思想・流儀・価値観を綴るブログ

自意識過剰から抜け出して精神的に自由に生きるために

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本当は話しかけたいのに、本当は発言したいのに、本当は踊りたいのに、自分の感情や欲求を押し殺して終わる―。

多くの人にとっての人生あるあると言っていいだろう。

 

なぜそうなってしまうのか。

それは、他の人にどう思われるかばかりが気になるからだ。

 

 

もちろん、他の人の反応に完全に無頓着でいては、赤ちゃんのように自己を主観的にしか捉えられない("真の主観視状態")ようでは、社会生活を営むことは難しくなる。

 

だから、自己を客観視する能力(=自身の言動の結果引き起こされる反応を予測する力)は必要だ。

 

しかし、多くは程度の問題だ。

周りの目を気にしすぎて、自意識過剰に陥っていはいないか。

客観的に自分を見つめようとして、"中途半端な客観視状態"に陥ってはいないか。

 

中途半端な客観視状態とは、周りのことが見えてはいるが、自己と他者の間の線引きを明確にしすぎており、自己への拘りが強い状態のことだ。

一歩引いた冷静な判断を下しているように見えて、実は盲目的である。

 

そこから自己への拘りを薄めて"真の客観視状態"に近付くことができれば、人生の選択肢は大いに拡がり、後悔の少ない充実した日常を送ることができる。

 

 

まとめると、

 

真の主観視状態

目の前しか見えていない状態。

視界イメージ→目の前に見える世界

 

中途半端な客観視状態

周囲が見えているが、自己への強い拘りゆえに身動きが取りにくい状態

視界イメージ→頭上1メートル地点から見える世界

 

真の客観視状態

周囲が見えており、かつ自己への拘りから脱した精神的に自由な状態

視界イメージ→上空から見下ろした世界

 

明確な線引きのできない、グラデーションの世界である。

 

 

特定の条件下では、真の主観視状態真の客観視状態は同じような作用を見せることもあるだろう。

しかしそれらは根本的に異なるものだ。

 
例えば、ヒッチハイク。

行き先を書いたボードを掲げているときに冷たい視線を浴びせられることもある。

つまり、社会的逸脱行動でもあるわけだ。

当然ながらリスクも付きまとう。

 

真の自己主観視人間は、欲求のままにヒッチハイクしようとするだろう。

 

中途半端な自己客観視人間なら、いざやろうと思っても、自意識過剰ゆえに周囲の目が気になり、出来ずに終わる可能性が高い。

 

一方、真の自己客観視人間の場合はどうだろう。

周囲の目を過度に気にすることがないから、 ヒッチハイクをするかもしれない。

あるいは、しないかもしれない。

どういうことかというと、たとえば当事者がか弱い女性であり、かつ治安の悪さで有名な場所にいる場合、客観的に状況を分析して、ヒッチハイクをしない選択を取るかもしれないということだ。

 

 

もう一つ、例を挙げておく。

授業中、先生が説明しているときに意見が湧いてきたとしたら、どのように行動が分かれるだろうか。

 

真の主観視人間は、先生の説明を遮って意見するだろう。周囲からは"何だコイツ"と思われることになる。

中途半端な客観視人間は、説明が終わったあとに意見を述べようと考えるが、結局周囲の目を気にして発言せずに終わる。

真の主観視人間は、クラスの状況を見つつ、的確なタイミングで発言する。

 

もちろん、同じ人間であっても、状況や体調によっては中途半端な客観視人間として振る舞うこともあれば、真の主観視人間として振る舞えることだってあるだろう。

しかし、然るべき状況において真の客観視状態に入ることができれば、自分の欲求にもっと素直に、後悔の少ない人生を歩むことができるようになる。

 

 

冷静に、客観的に状況を把握しつつ、

 

 「自己も他者もそんな大差ない」

「皆完璧じゃないんだから、自分だって落ち度のない完璧人間に見せようとする必要はない」

「人生は一度しかないのだから、ダサくてもやりたいようにやるのがいい」

 

そんなマインドに持っていくことができれば、それは真の客観視状態に近い。

 

 

自意識過剰に陥ることなく、自己への拘りを減らしていき、大局的に物事や状況を捉えることができれば、可能性は広がり、自分の価値観を大切に、精神的な自由を謳歌することができる。

 

一度きりの人生を謳歌するために、私はそういう人間でありたいと思う。

 

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