「日々、自覚的に生きよ」
「自覚している状態とは、自分の行為の全体における客観的な意味を知っているということだ」
高校を卒業したときあたりに、父親に餞としてこのような主旨の言葉を送られた。
「その行為は自分にとってどのような意味を持つのか」
単語を覚えるためにひたすら書きまくる必要はあるのか。
自分が覚えられればいいのだ。
別のもっと効率的な方法がないだろうか。
授業を理解するために手間をかけて丁寧に板書する必要はあるのか。
逆にササッと書いてしまうことのデメリットとメリットは何か。
写真を撮るのではダメなのか。
楽しくもない飲み会に付き合いで行く必要はどれくらいあるのか。
楽しくない上に「行かなければ崩れる程度の人間関係」ならば、維持する意味はあるのだろうか。
出費を抑えるために1円でも安い商品を求めてスーパーをハシゴする意味はあるのか。
カネという資源に固執するあまり、時間や労力という資源の存在を忘れてはいないか。
時には立ち止まって、自分の行動を振り返り、全体における意味を考える必要がある。
なぜなら、時間も労力も限られているのだから。
油断すると、機械的に、盲目的に、不合理なことに資源を費やしつづけることになる。
同じ行為であっても「主語が誰か」によって意味は大いに変わってくる。
たとえば、乱れた部屋を掃除しなくても物理的には勉強することはできるが、その状態で勉強に集中できるか否かは人それぞれだ。
掃除することによって勉強のパフォーマンスが上がると判断すれば掃除すればいいし、さして関係ないのならそのままでもいい。
たとえば、強迫性障害の人の中には、潔癖症が過ぎるあまり、手洗いだけでも尋常ではない時間をかける人もいるという。
それでも本人にとってそれが精神安定などの上で合理的であるならば、他者がとやかく言うことでもない。(その障害に本人や周りが生きづらさを抱えているのなら、その障害を克服することがきっと望ましいが)
このような具合に、自分の行為の客観的な意味を把握しようとする癖を身に付けることで、より合理的に生きることができるようになっていくのだと思う。
もっとも、常に合理的でいるのは不可能であるし、そうする必要もない。
むしろ、そうすれば心が疲弊するだろう。
シメるところはシメる、という具合に、自分のペースでメリハリつけてやるのが一番。
2017.??