NEOISM

思想・流儀・価値観を綴るブログ

「無駄な経験はない」なんて言ってる場合か?

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大学一年生の頃、知り合いの誰かが「バイトがだるくて憂鬱だ」と嘆いていた。

なぜ続けているのかと尋ねると、社会勉強になるし無駄にはならない、と彼は言った。

 

教職を履修していた知り合いの誰かに、将来教師になりたいのか、と尋ねた。

なるつもりはないけど、取っておいても無駄にはならない、と彼は言った。

 

 

無駄な経験なんて何一つない。

何か学び得るものがあれば、決して無駄ではない。

 

言葉通りに受け取れば、それは事実だ。

だが、その事実に安住して、現実から目を逸らしてはいないか。

 

 

例えば、ある人が20年ものあいだ自宅に引き籠もり続けてダラしないNEET生活を送っていたとする。

 

その結果その人は「生産性も精神的成長もない自己完結した空間で日々をただ漫然と怠惰に生きることの虚しさ」を悟ったとしよう。

 

 

さあ、これは無駄な経験と言えるだろうか。

 

20年かけてでも本人なりの気付きを得ることができた以上は、本人にとっては無駄ではなかったのかもしれない。

 

 

しかし、どうだろう。

 

20年もあれば、大抵のことはできたはずだ。

 

勉強して資格を取って、好きな仕事に邁進できたかもしれない。

素敵な人と恋に落ちて幸せな家庭を築いて笑顔に囲まれていたかもしれない。

目標を定め、それに向けて活き活きと日々を楽しんでいたかもしれない。

 

そうする中で、様々な気付き、学び、感動があっただろう。

 

 

確かに、その引きこもった20年は無駄ではなかったかもしれない。

本人には多少なりとも意味があったかもしれない。

 

しかし、果たしてそこに、かけた時間に見合う意味があっただろうか。

 

 

10は得たかもしれない。

 

だが、その時間で1000も10000も得られたかもしれないのだ。

 

 

「知っておいて損はない」?

ほぼ全てにおいてそう言えるだろう。

知るために費やす時間と労力を考慮すべきだ。

 

「取っておいても無駄にはならない」?

そんなことを言って、別に教師になる気にもないのに教職の授業を履修する者、活かすつもりもない資格を取ろうとする者を何人も見てきた。

 

「どんな経験も無駄ではない」?

その事実に安住して、より自分にとって意味のありそうな選択を放棄してはいないか。

 

 

高校時代の終わりに、私は高校生活をめちゃくちゃ後悔した。

やりたいようにやってきたつもりだったが、もっと色んな選択肢があったということを、様々な局面で強く感じたからだ。

 

浪人時代の終わりに、私は浪人生活をめちゃくちゃ後悔した。

ちゃらんぽらんな生活を送るくらいなら、中途半端にビビらずに思い切ってやりたいことに邁進すればよかったと強く思ったからだ。

 

だが、現実に色んな選択肢があっても、存在を知らなければ、ないのと同じ。

それ以来、私はアンテナを高く張るようになった。

今の自分の在り方を意識して、現状を疑い、自分にとってより良い選択がないか、よく見つめ直すようになった。

 

 

人生の時間は有限。

しかし、選択肢は無限大。

 

真実や正解なんてないし、(宇宙的には)許されないことなんてない。

 

恐れずに、視野を広く持つ努力をして(アンテナを高く張って)、勇気を出して胸の高鳴る方へ踏み出していった方が、ずっと良いものが得られる。

 

2016.12