NEOISM

NEOが己の思想・流儀・価値観や日記を綴るブログ

旅とは「受動的な快楽」に溺れる行為なのか?

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ある日の夜にツイッターで、金沢で宿泊施設経営をしている人のこんなツイートを見かけた。

 

 

この文面だけを文字通り受け取ったとき、私は違和感を覚えた。

「それは旅の仕方や姿勢によるだろう」と。

 

なお、大枠として、長期に渡るバックパッカー的な旅のことを指しているのだと思う。

 

 

確かに、現実逃避的に旅を続ける人に関してはそうなのかもしれない。

かつて出逢った様々な長期旅行者たちのことなどを思い出してそう思った。

「世界一周とかスゲー」と思う人は多いと思うが、これまで多くの世界一周中の旅人(様々な国籍)に会ってきて、すごいと思った人はあまりいなかった。

多くは普通の人。

ある程度の経済力と健康と時間と行動力があれば誰でもできる。

 

 

「受動的な快楽」の対義語は「能動的な快楽」、つまり勉強であったり事業であったりという「生産的行為から生まれる快楽」のことだろう。


確かに旅をしていると、生産的なこととは縁が薄くなる。

そもそも旅は休暇と結び付きが強く、継続的に頑張るということがなくなる。

そうでなくても、街歩きとか観光とかしていれば自ずと時間がなくなる。

 

旅は能動的に動くことで始まるけれど、「ただ享受してハイ終わり」なら確かに「受動的な快楽に溺れているだけ」と言えるだろう。


それでも全く構わないと思う。

旅に限らず、多くの快楽は受動的なものだ。

遊園地、水族館、カラオケ。

与えられたもので遊ぶ。与えられたものを観る。

 

 

いや、そもそも「能動」と「受動」の線引きが曖昧だ。

 

水族館でも、ただぽかーんと長めながら観て廻れば「受動」と言えるし、しっかり解説を読んで勉強しながら観て廻れば「能動」と言える。読書も然り。

 

結局は姿勢次第なわけだ。

  

旅の中で、言語や文化などの様々な違い、トラブル、人との出逢い、息を呑む美しい光景など、色んなものとぶつかる中で得られた学びやインスピレーションを糧にできれば、受動的な快楽に留まらない能動的な快楽、生産的行為にも達するだろう。

 

そんな旅でなくとも充実感は得られるだろう。

しかし下手をすれば、一見充実しているように見えて、スカスカの思い出に終わってしまうこともある。

 

旅に限った話ではなく、勉強や仕事にだって言えること。

 

 

2018.08