NEOISM

思想・流儀・価値観を綴るブログ

もし人生をやり直すならどうするかなんて考えてみた

 

「もし人生をどこかからやり直すとしたら」

誰しもそんなことを考えたことがあるだろう。

「やり直せたとしてもやり直さない」とかっこよく言える人もいるかもしれないが、ここは冷静に考えてみた。

 

・別の高校に進む

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窮屈な高校だった。勉強中心の環境。

それでも自分なりに色々動くことで楽しめたが、狭い世界で生きていた感が強かった。

活かしきれなかった自分もいたとは思うが、もとより多様なアクティビティに身を投じられるような土壌はあまりなかった。

地元を離れてどこかもっと魅力を感じる地域・学校に進学して一人暮らしをするなんて選択、当時はあまり現実的に考えていなかった。(許可されたかは別として)

無論、既存の人間関係とは離ればなれになるが、地元を遠く離れた今となっては今も続く人間関係なんて結局のところごく僅かなので、後になってみれば似たようなものだ。

 

・転校する

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小学校も中学も高校も一つずつしか通わなかった。まあ多くの人はそうだろう。

しかし、それでは自分の中の小学校像、中学像、高校像の標本数が少なすぎる。

どうせ通うのなら、もっと色んな学校を見てみたかった。

小学校・中学・高校でそれぞれ1~2度ずつくらいは転校して、全く別の地域の学校に行ってみるのも面白いと思う。どこにでもあるタイプの学校、荒れた学校、進学校、特色のある学校など色々。

小学生の頃からちょくちょく転校願望はあったが、12年間を通してその必然性もなく、実行に移すことはなかった。

無論、既存の人間関係とは(同上)。


・1つのスポーツにガチで打ち込む

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小中高大とスポーツを多少は嗜んできたが、いずれも参加度合いはサークル感覚だった。

大学時代に体育科目を14種目15単位取るくらい、スポーツは基本的に大好きだが、ガチで一つのスポーツに取り組んだことは一度もなかった。

根性、チームプレイ、上達の喜びなどをスポーツを通して実践的に学ぶ。そんな機会を得たかった。

 

・自由奔放な浪人生活を送る

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浪人時代、京都大学にて

受験勉強をもっと頑張って現役で大学に入ればよかったとはあまり思わない。

浪人しながら精力的に遊び回ればよかった。

私の浪人時代は、ダラダラする時間が多く、生産的な活動や学びを得る機会が、期間の割に少なかった。ネットサーフィンで情報収集に勤しんだり、中古で16000円くらいで買ったパソコンにDVDを入れて観まくったり、自転車で街を走り回ったりとブラブラしていた記憶が一番強い。ニート系浪人というよりも、浪人系ニートだった。

1年間あれば、各地を旅したり、色んなアルバイトをしたり、何でもできた。

振り返れば、現役のときの貯蓄もあって、受験直前にガチるだけで事足りたのだから、妙にチキらずに謳歌すべきだったのだ。

 

・もっと色んな人に会っておく

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コロンビアにて路上パフォーマンス中に知り合った家族と

大学1年以降、多くの大学生がそうであるように、それまでの人生に比べると様々な出逢いが増えた。

人並み以上に色んな人に会ってきたとは思う。

しかし、もっとガンガン色んな人に会いまくればよかったと最近思う。

大学、それも筑波という地に安住していると、どうしても関わりを持てるのは大学生がほとんどになりがち。

もっと目的を持って、より色んなところに行けば良かった。

 

・インターンする

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JICAインターン

実務的なインターンをしたことが、実はない。

一応、留学中にJICAでインターンという名の活動をしたのだが、いわゆるインターンと違って実務的なものではなく、各地の活動視察と報告が大半だった。

短いものは何度か申し込んだことはあったが、何かのいたずらなのか、都合が合わなくなったり電車が遅延したりして、結局いずれも参加せずに終わった。

大学2年の夏休みなどにでも、どうせ時間があったのだから数週間単位でやっておけばよかったと思う。

 

その他、「ビットコインに初期のうちに手を出す」「中高時代に好きだった子に積極的になる」など。

 

 

思い付くものを挙げてみたが、やはり「こうしなければよかった」というものはなく、「こうしておけばよかった」ものばかり。

もちろん同一内容でも書き方によって左右されるとは思うが、少なくとも自分から出てきた言葉はみな後者であった。

 

「こうしなければよかった」と感じる失敗的な何かによって得られた学びがあるからこそ、あまり強く感じることはないのかもしれない。まあ、取り返しのつかない重大な失敗を犯した場合は話が変わってくるのだろうけれど。

多くの人がそうなのだろうと勝手に思っている。皆さんはどうでしょう?

 

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高校時代の最後、それまでの人生の様々なことについて後悔して凹んだことがあった。

そのとき、後悔の内容を書き出してみた。

時期ごとに「やってしまった後悔」と「やらなかった後悔」に分類すると、やはり後者の方が圧倒的に多かった。

 

次に、その「やらなかった後悔」をいかに昇華できるかを書き出した。

すると案外、できそうなものが多かった。

先ほど私が出した例で言うと、「もっと色んな人に会っておく」なんてのは、今日からでも実践できる。

確かに大学1年のときに同じ出逢いが得られていれば、より意義深いものになっていたかもしれない。が、そんなことは会ってみなければ分からない。

 

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月並みだが、捉え方次第。

 

Our attitude towards life determines life's attitude towards us.

人生に対する自分の姿勢が、人生の自分に対する姿勢を決める。

 

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2019.10